お久しぶりです!編集Nです。今回の研究に取り上げるのは……この作品!!
MAGCOMI読者には釈迦に説法かもしれませんが……「この作品を読んだことない」というような方もいらっしゃるかもしれないので、まずはNの独断と偏見による簡単なあらすじを説明します。
※一部作品のネタバレを含んでいますので、ご注意ください。
『あめつちだれかれそこかしこ』とは!?
両親の死後、身寄りはいないと思っていた青司のもとに舞い込んできた、祖父の遺産の話。会ったこともない祖父から相続したのは、すっかり煤けた平家の古民家。取りあえず住んでみることにはなったけれど、そこかしこから不可思議な気配が…。
6DK、庭付き木造家屋の古い一軒家。
そんな物件を引き継ぐことになった主人公・笹木青司は怒涛の日々を過ごすことになります。
なぜなら彼は天涯孤独の身であり、そもそもこの家を相続する事実を全く知らなかった為です。
青司の両親は若い頃に亡くなっており、それから彼はずっと一人で過ごしてきました。
そんな折に祖父が亡くなり、その遺言もあって祖父の親戚が彼を探し出し、引っ越し&転校&遺産の相続という一大イベントに巻き込まれることになってしまったのです。
そんな彼ですが、休む間もなくやることが一つありました。
それは、家の掃除です。
実はこの家、いろんな事情があってかなり荒れ果てていたのです。
とはいえ、怒涛の日々に疲れ果ててしまった青司は、明日でいいやと思い寝ることに。
ところが、外から妙な物音がしたので部屋を出てみたところ…
幽霊?のような男性の姿を見つけてしまいます( ;゚Д゚)
そうして迎えた翌朝――
なんと、この幽霊(?)は朝になっても
消えることなく存在していました( ゚д゚)
冷静に「いる……」と感じつつも掃除を行う青司の精神力も大したものですが、
この幽霊(?)も中々の度量の持ち主で、なんと青司の掃除を手伝ってくれるようになります。
とはいえ何か害があるわけでもないので、青司も普通に受け入れてしまっていると――
ついにはおじさん(?)の姿として
ハッキリとこの世に顕現されました( ゚д゚)
当然、「あなたはいったい何者なのか?」という疑問をぶつける青司ですが、
まさかの回答が返ってくることに。
―—そう。
実は、青司の家系は代々神々とともに過ごしてきており、
数多の神や人ならぬものとの交流があったのです!
この男性はその内の一人である神様であり、この家で代々青司の家族を見守ってきたのだとか。
その後、紆余曲折を経て「信じる訳ではないが受け入れざるを得ない」というような形で
神様と名乗った男、年神との同居を受け入れることにします。
その後、この家に住んでいるもう一人の神・納戸神や、
神々やら怪異やら親戚やら友人やらあめつちだれかれそこかしこと交流していく――というところから物語が始まるのですが。
ここで、私の「気になったことは徹底的に調べないと気が済まない」という性分が鎌首をもたげました。
それは――
ズバリ! 本作に登場する年神についてです。
神といえば、ゼウスやオーディンくらいの比較的ポピュラーなものしか知らなかった私としては、年神という神の存在は非常に興味深いものでした。
一応作中では、年神について下記のように説明がありましたが――
この説明を読んだ途端、私の頭には次から次へと疑問が湧き出てきました。
すなわち、
年神とはどのようにして生まれた存在なのか?
穀物・農耕の神様とのことだが、豊穣の力があったりするのだろうか?
正月に来訪する理由とは?
そもそも神々としての「格」は高かったりするのだろうか?
他の有名な神々との関りだったり、何らかのエピソードがあったりするのだろうか?
etc.……
一度そう思ってしまえば、最早それは呪縛のように私の心を蝕んでいく。(妄想)
ということで、前置きが長くなりましたが―――
第23回マグコミ漫画研究部!~MAGCOMI作品のどうでもいいことを真面目に考察してみた~の議題は、こちらになります!!
『あめつちだれかれそこかしこ』に登場する年神について研究してみた
まずは、「年神」という存在について調べてみたところ、興味深い事実が明らかになりました。
なんと年神は、古事記によると須佐之男命の長男として生を受けたそうです。
スサノオノミコトと言えば、神について詳しくない私でも知っている超有名な神様です。
三種の神器の一つである天叢雲剣を使って八岐大蛇を退治したという英雄伝説もあり、知っている方も多いのではないでしょうか。
その息子である年神もとても偉い神様とも言われており、数多の神の祖になったとも言われています。
当然、全国各地に祀られている神社もあるそうで、主に「大歳神社」と呼ばれているのだとか。
そんな年神ですが、神としては農業・豊穣を司っています。
また、毎年正月にやってくる来訪神であるとも言われ、地方によっては正月様、恵方神、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれているのだとか。
農業と年明けというと関連性が薄いようにも感じられますが、実はとても密接に結びついている事柄でした。
なぜなら、「年」という言葉の語源は「登志(穀物を表す古語)」からきているからです。
そもそも、古代の日本人にとって穀物の生産は生命線ともいえる仕事でした。
現代と違い、コンビニやスーパーマーケットもない古代においては
食べ物を得ようと思ったら狩猟か採取、農耕のいずれかしか選択肢がありません。
狩猟といっても、現代の武器や道具があるわけではないので、石器を使った原始的なものになります。
採取についても図鑑があるわけではないので、何が食べられるのか手探りで探っていく必要があり、多大な労力を必要とするでしょう。
更に両方とも必ず成果物が手に入るという訳ではなく、冬にはどちらも行うこと自体が難しくなるという欠点もありました。
そんな中、手頃に収穫ができ、環境に左右されず長期間備蓄可能、そしてきちんとした栄養を摂取できるという意味で、古代人にとって農耕は「生きていくために必要な重大な仕事」だったのです!
そうして、いつしか米をはじめとする穀物の収穫のサイクルを「登志」と呼ぶようになり、「年」という漢字が振られて暦という概念ができた……とも言われています。
つまり元々「年」という言葉は暦を数える為ではなく、農耕を突き詰めていった生まれた概念のようなものであり、それが故に年神は農耕を司る神と呼ばれているのでしょう。
とはいえ、歳月の経過とともに農耕だけではなく「年」にまつわるような逸話も伝わっていき、今では新年に祀られることの多い神として知られてもいます。
中でも年末年始に行う行事には、ことごとく年神が関わっているそうです。
例えば、年末には大掃除をするというのが慣例化していると思いますが、
これは年神様を迎える準備を始める為に掃除をするということが元になっているようです。
通称「煤払い」とも呼ばれ、現在では大晦日までに行うというような形になっていますが、当時は12月13日から行うものと決められていました。
この文化は平安時代からあったようで、江戸時代には幕府が正式に12月13日を「煤払いの日」として定めていたというから驚きです。
理由としては、年神は綺麗好きであり、汚い場所には存在できない(綺麗な場所じゃない家には訪れられず、年神が訪れてくれないと来年は不作になる)というような話が転じて、年神様が訪れる前である年末に大掃除を行うという形になったのだとか。
そのあたりは、本編でも語られていましたね!
また、年始には門松・しめ飾り・鏡餅などを家に飾ることが慣例化していますが
これら全て、年神に関係している事柄と言われています。
門松は年神様が宿る依り代のようなもので、しめ飾りは年神様を迎える神聖な場所をあらわす印であり、鏡餅は直前の年の収穫(米)を、年神様への感謝の気持ちを添えてお供えするためのものという意味合いがあります。
作中では門松ではなく、玄関前にある木が依り代と言われていましたが、
この依り代が倒れた際、目印がなくなったので
年神が帰って来られないと青司たちが話していましたね(;'∀')
また、青司が鏡餅について市販のものだとありがたみが少ないかも? と作中で尋ねている描写もありました。
これは、もしかすると単純にお供え物への誠意としての意味合いだけじゃなく、
豊穣の神に直前の年の収穫(米)ではなく、別のところで作ったものを差し上げることに抵抗感を覚えたが故の言葉だったのかもしれませんね!
また、正月の恒例行事と言われているお年玉についても、年神由来の言葉のようです。
元々、お年玉というのは年神への供物として捧げられた鏡餅を、家長が子供に分け与え、その餅が御歳魂と呼ばれたことに由来しています。
年神へ捧げた鏡餅は、年神の霊魂が宿ったものと同義であり、その魂を食べることで
年神の強い生命力を身につけ、凶作や災厄を退け子供の無事な成長を願う……という意味合いがあったのだとか。
作中でも、お年玉を上げてみたら?という問いに対し、
「餅でもつこうかな」と返して年神が力うどんを振る舞う……というエピソードがありましたが、これは年神が自身の「御歳魂」をお餅に込め、生命力を皆に分け与えようとしたのかもしれませんね!
ちなみに、現代だとお年玉=現金を渡すというイメージが定着していますが、これは主に昭和中期ごろに確立された文化のようです。
高度経済成長により都市部の世帯数が増え、一軒家ではなく団地やマンションが増えた結果、餅つきの場を用意することが難しくなり、それぞれの家庭で餅をついて歳神さまへ供物を捧げるということ自体が減少していきました。
ですが、行事自体はそのまま残り続け、お餅の代わりに手軽に準備できて相手にも喜ばれるお金に変わっていった...というのが主な事情のようです。
こうして伝統文化や風習が廃れていくのだと思うと、1話の青司よろしくなんだか物寂しいものを感じてしますね…(´・ω・`)
また、最近有名になってきた行事、節分に食べるといいと言われる恵方巻の「恵方」という言葉も年神に由来しているようです。
恵方とは、端的に言うと年神様がいる方向・場所を指す言葉です。
年神様は毎年いる場所が変わり、違った場所から各家を訪れるといいます。
先述した印や依り代が必要なのは、ある意味違った場所から訪れる年神様が迷わない為の道しるべのような役割を果たしているのでしょう。
豊穣の神である年神様が来た方向は縁起がいいとされ、その方角に向かって人々が挨拶などをすると吉兆が起きると言われていたことから、それが転じて、恵方巻を食べるときにも行われるようになったそうです。
ちなみに余談ですが、2022年の恵方は北北西と言われています。
せっかくなので、是非とも私も年神様にあやかろうと
来年はこの方向を向いて恵方巻を食べようかなと考えていたのですが……
ふと、ここであることに気付きました。
それは、『あめつちだれかれそこかしこ』の時系列についてです。
本作は、1巻からきちんと季節や時間が経過して進んでいく物語です。
例えば、青司がこの家に引っ越してきたのは、春・新学期の季節。
そうして回を重ねる毎に夏秋冬と月日は流れ――
今現在、最新43話ではまさに年神の本領発揮ともいえる時期、
年末年始における青司たちの物語が描かれているのです!
上記描写を参考にするなら、現在、作中では1月7日前後ということになります。
そう考えると、この後すぐに恵方巻を食べるであろう2月3日を迎えることも間違いないはずです。
と、いうことは――
結論。
もしかすると今後、作中で恵方を向いて恵方巻を食べる年神にまつわるエピソードが描かれるのかもしれない……!?
はたしてこの研究結果が合っているのかどうか…!?
是非とも楽しみにしながら本編の更新をお待ちください!
そして、もしまだ『あめつちだれかれそこかしこ』を読んだことのないそこのアナタ!!
これを機に、読んでみてはいかがでしょうか。
現在、下記にて第一話が無料で読めますので、少しでも興味を抱かれましたら是非お読みください!
以後もこのような形で、私Nが独断と偏見で選んだMAGCOMI連載作品の気になった点を考察・研究していこうと思います! 次回もお楽しみに!
©青桐ナツ/マッグガーデン
※本ブログへ記載した画像は、『あめつちだれかれそこかしこ』①~⑨巻より抜粋し、引用させて頂きました。